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2010年4月

2010年4月30日 (金)

三菱時代は

まさに学歴社会の象徴のような職場で、周囲は有名大学出の秀才ばかり。

丸の内界隈は三菱倶楽部なる施設が色々あって、その中にコントラクトブリッジなるトランプ場が有った。これが浅学非才の身にあってはかなりハイソでそれなりの知能ゲームで悩まされた。

高校出では付いて行けそうもなく、これはもっと勉強しなくては、、、と考えるに至り大学に行って鍛え直そうと思い出し、神田の予備校に通い始め、苦節2年で東京理科大2部(夜間)に合格した。

ところが好事魔多しとは冗談だが、ここでも座席が名簿順で私のうしろが黒沼氏。この彼が滅法酒好きで勉強はホドホドに毎夜のように飯田橋の安居酒屋に通うこととなる。

で、氏との付き合いが私の人生が大きく羽ばたくことになるのだ。まさに人生イロイロ。

委細時報にて、、、。

2010年4月26日 (月)

晴れて社会人に

高卒で三菱原子力工業(MAPI)に入社、大手町ビルの2階で、工務課に配属される。高卒の同期は曖昧な記憶では、男子5名、女子4名。仕事と言えば簡単な図面を書くことと、東海村への重要部品の搬送。たしかキャスクと言う保安部品を多く運んだ。ここの実験用原子炉JRR2の看板は拙作だが(c)、今となっては残っては居るまい。

三菱と言えばさすがに優良企業、気に入ったのは福利厚生施設が充実していること。週末ともなれば丸の内界隈の高級レストランでランチ、、、B1に専属の床屋が有って時間内でもいつでも行ってよかった。床屋の帰りにはちょいとコーヒーもOKだった。お代は何処も格安だった。

そして、初恋の君に出逢うことに、、、、。名前は一つ年上の南千住のM禮子さん、電話交換手をしていて私がいつも「(取り次いでくれて)ありがとう」というのが気に入ってくれていつの日かデートに誘われた。最初に行ったのは八重洲口の喫茶店「ひいらぎ」。彼女はクラシック音楽よりPOPS系が好きで八重洲口のクラシック音楽喫茶「上高地」よりも銀座のアシベが常店だった。

その後どうしてどうなったかは少し悲しい思い出になるので残すのは止そう。今頃どうしているのか、会えるものならゼシ逢いたいなぁ。御年70才かぁ。

=つづく(c)=  写真は貼らないことにする。ない方がイメージ沸くかな。

2010年4月23日 (金)

就活なんて

言葉は当時(昭和34年)はなかった。.

工業高校ゆえ、進学者はゼロ。企業からの就職情報は有ったが関心は低かった。♪そのうち何とかなるだーろ~お。

みんなが「就活」に走っていたが、のんびりと構えていた。担任の先生が第一志望と第二志望をはよ決めないと、、と言うので第一志望:三菱原子力工業、第二志望:千代田化工なる会社を志望した。

自分としては第二志望の方にしたかったが、絶対受からないと思っていた第一志望先に何と受かってしまった。担任の先生の立場からすれば断固行くべし、ってんで決断した。

今にして思えば、第二志望先は親友のTさんが定年まで全うした超優良企業。三菱に落ちていれば人生大きく変わったはずだった。まさに人生いろいろ。

親父は「三菱によ~入れたよなぁ。」って我がことのように喜んでくれて隣近所にふれ回って居た。

=じまん噺はつづく=

2010年4月20日 (火)

それから2 *

ケンタローさま、いつもコメントありがとうございます。

音楽部には「出入禁止処分」とはなったものの理由を付けては先生(繁田先生:、後にNHKテレビの数学番組にご出演)所蔵のレコードを鑑賞していた。

どんな曲をかけてどの様に解説して下さったかは忘却の彼方だが、クラシックの定番曲だったのだろう。私のクラシック音楽の「楽典」の様な存在だった。

が、しかし我がバレー部は少しは強くなったのか、相手から対戦の申し入れが多くなり毎週のようによそに出かけて行った。当然音楽部への足は益々遠くなった。

印象に残っているのは、関東大会東京都予選のベスト16をかけて強豪、明大中野高校に勝ったこと。私の滅多にない連続サービスエースも有ったりで大番狂わせだった。試合が終わると負けた相手の監督(先輩)は「蔵前ごときに負けたやがって」と、選手に総ビンタを食わせていた。

我がチームは浅草橋駅に凱旋して、先輩が駅傍の蕎麦屋でカレー南蛮を奢ってくれたのだった。が、何処で試合をやったかは思い出せない。

・夏の合宿は例年、外房の大網白里中学で行われたが宿舎は近所のお寺だった。先輩が(牛)肉を食べきれないほど差し入れてくれたことだけははっきりと覚えている。

もし音楽部一本に絞っていれば、今頃は音楽家として大成した、なんぞとは夢にも思わない。

こうして古き佳き時代を遡ると感傷が先に立ってしまうものだ。

ムカシはヨカッタ しみじみ。

2010年4月14日 (水)

それから *

第一志望の都立蔵前工業高校に無事に合格したのはいいが、多分下から数えた方が早かった。TOP合格は850点はおろか満点近い者も居たらしい。母校の深川2中に汚名を着せてはまずいので必死に勉強に励んだ覚えが、、、全くない。

先輩たちは部活動の勧誘に懸命で、テニス部と音楽部の両方に入った。音楽部は数学科の先生が担当で氏の所有のレコードを持ち込んでは良く聴いていた。本格的に音楽の勉強をしたのはこれが最初。テニス部はそれが終わってから付き合い程度に参加した。

2年生のある日、バレーボール部に入った同輩が「お前、結構やるじゃない。こっちに来ない。」、、、体育の時間はバスケやバレーが多かったが何故かバレーが好きだった。で、迷うことなく移籍?した。練習はきつくて、特に上がりのウサギ跳びコート2周には苦しんだ。当然、音楽部には「出入り禁止処分」となった。

バレー部ではマネージャーを任され、対外試合の折衝を行った。強い相手は避けて専ら女子高に出向いた。白鴎高校は女子系で良く対戦したが、まさかかみさんが(白鴎を)応援していたとは全く知らなかった。

なんたる巡り合わせ。。。人生いろいろ。

2010年4月11日 (日)

「音楽の泉」

今朝もNHKラジオ、日曜日の朝のこの放送を聴き出したのは何時頃のことだろう。

当初の解説者は堀内敬三氏、どんな声だったかははっきりとは覚えていないが、優しくて素晴らしい解説者で、私のクラシック音楽勉強の父と言える。ちなみに親父は謡曲をたしなんでは、あのうなり声をさんざん聞かされた。

歴代解説者をググって見たら(最近ではニフル、ヤフルと呼ぼうか:善工房新語?)私が9~19才の時期。中学時代の高校受験当時だったのか。

・ 歴代解説者 60年間で3人とは意外の少なさだ。

初 代:1949年-1959年 堀内敬三、

2代目:1959年-1988年 村田武雄(最長)

3代目:1988年-2010年 皆川達夫

2010年4月 7日 (水)

辻井伸行さん

録り貯めしていた辻井氏の録画をしみじみと見ていた。

曲はベートーベンのピアノソナタ「ハンマークラビア(字幕はハンマークラビール)。

八重洲口のクラシック喫茶(たしか「上高地」)で、初恋の彼女と聴きに行ってはリクエストをしたものだ。

終楽章に進むにつれ聴く方も(弾くのも?)難解極まりない曲だが、辻井氏の精緻な演奏には圧倒された。

第二楽章の解り易い旋律は数分で終わって、難解で長い第3,4楽章に進んで行くが、作曲者の当初の意図は違うんじゃないかと思っている。

つづく

2010年4月 5日 (月)

高校合格

ケンタローさん、赤パンダさん、コメントありがとうございます。コメントが付くと更に書く気になるもの。。。持つべきは友。

何とか第一志望の蔵前工業工高に合格。親父が喜んでくれて、向こう三軒両隣にふれ回って自慢していたのを鮮明に覚えている。(恥)

深川二中の担任の先生に依れば、「何とか内申点が良かったので合格出来た。入った以上は深川二中の名を汚さないようにガンバレ!」、とか言われた覚えが有るも余計なお世話で、ぜんぜん無頓着だった。

ぎりぎりで入ったことが解って居たので初登校以来、級友が全て秀才に見えて劣等感にさいなまれることになった。なんたって合格点の最低ライン、800点すれすれだったのだ。

つづく

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